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長篠合戦余話「勝頼の敗走と武節城」

勝頼敗走ルートマップ

〈序章〉武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、1574年(天正2年)東美濃の織田領に侵攻し、美濃・尾張・三河攻略の拠点となる明知城(恵那市)を大軍をもって襲撃し落城させました。この時、勝頼は東美濃の「十八城」を攻め落とすという大勝利をあげたのですが・・

長篠の戦い

長篠の戦い 1575年(天正3年)5月、武田勝頼は、1万5千人の軍を率いて三河の長篠城を攻めました。これに対し、織田・徳川の連合軍3万8千人は長篠城救出のため設楽原(したらがはら)に進撃し、連吾川に沿って馬防柵を築きます。5月21日、両軍が設楽原で激突。当時負け知らずの武田の騎馬軍団も、織田・徳川の3千挺の鉄砲の前に大敗し、多くの重臣を失うことになりました。

武節城

設楽原からの敗走 早朝に始まった設楽原での戦いに決着がついたのは、午後2〜3時ごろだといいます。戦いに敗れた勝頼は、わずかな直臣と田峯城主の菅沼定忠に伴われて敗走します。

武節城

田峯城 勝頼は菅沼定忠の案内で定忠の居城 田峯城(だみねじょう)に入ろうとします。しかし、敗報はすでに城まで届いており、留守居役の家老 今泉道善が織田・徳川の報復を恐れて門を閉ざし、勝頼一行を城に入れてくれません。自分の城に入れない定忠は地団駄踏んで悔しがりますが、やむなく段戸山(鷹ノ巣山)を越えて支城の武節城(ぶせつじょう)を目指しました。

武節城

段戸山を超えて 勝頼が田峯城に到着したのは夜だったでしょう。ですから、その日のうちに武節城に行くことは物理的に無理です。そこで当時、山の中のフタマサという所にあった平太郎という男の鷹小屋に一晩隠れ、翌22日に武節城に向かったものと思われます。田峯から武節城までは当時18歳だった喜八という若者が道案内をし、ジャングルのような段戸山を越えて武節城を目指しました。

武節城

武節城 5月22日、山を越えて命からがら武節城にたどり着いた頃には、陽もだいぶ傾いていたろうと思います。武節城では城兵の多くは長篠の戦いに駆り出されていたので、残された留守番の兵士たちは、何の前触れもなくいきなり現れた田峯のお殿様と武田の棟梁に、腰を抜かさんばかりに驚いたことでしょう。
城兵たちが「梅酢湯」を差し出すと、勝頼は旨そうに飲み干して渇きを癒し、ここでようやく休息することができたのです。武節城で一泊した勝頼は、翌23日の朝、杣路峠を越えて自分の支配地である信濃へと逃れていきました。

※参考資料:「長篠合戦余話 勝頼の敗走と武節城」 安藤 泰


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